わらじ祭り

 

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その昔、大王崎の沖、大王島に身の丈三十尺(約10m)一つ目の大男が住んでいたそうな。

その一つ目、片足の大男の名は、ダンダラボッチ、またの名をダンダラ法師(ダンダラホーシ)と言い、時々波切里の浜に来ては大風を起こし、大波を起こし娘をさらうわ様々な悪さをしておった。

 

このダンダラボッチ、その昔、熊野に住んでおり、そこで悪さをしでかしたのか熊野の神様、八大龍王に追われ、この波切の先の島、大王島に移り住んできたそうじゃ。

さて、困り果てた村の衆は、産土神の韋夜神さま(いやのかみ)に助けを請うた。

韋夜神様は二人の男と一人の娘を使わされたそうな。

 

あるとき、ダンダラボッチが里に下りてくると、娘が大きな筵を編んでおった。「それは何じゃ」とダンダラボッチが娘に尋ねると、「千人力の村主が履く草鞋じゃ」と答えた。さらに先に進むと、大きな竹篭が於いてあったそうな。実はこの竹篭、魚を入れる大きな魚籠であったわけじゃが、不思議に思ったダンダラボッチは、村人に「あれは何じゃ」と尋ねた。 すると村人は、あれは「千人力の村主の煙草入れじゃ」と答えた。今度は、大きな布みたいなものが干してある。実は、小魚を捕る大きな網だったわけじゃが、またダンダラボッチは村人に「あれは何じゃ」と尋ねて見ることにした。すると村人は「千人力の村主の褌じゃ」と答えた。

 

自分より大きな大男が里にいては今まで悪さをしてきたダンダラボッチはどんな罰を受けるかも知れない。あわてたダンダラボッチは一目さんに退散し逃げていったそうな。

逃げていった先は桑名とも言われているそうな。

さて、この村人と娘、実は韋夜神の化身だったそうじゃ。村人は、ダンダラボッチが戻って来ない様、毎年九月の申の日に大きな草鞋を流し、波切には千人力の大きな大男がいるぞと脅したそうな。これがわらじ祭りの始まりだそうじゃ。

このダンダラボッチ、波切で悪さをしでかした名残が、港の入り口にある、烏帽子岩。うんこだそうじゃ。また、大きな足跡を残し、港の魚市場付近には足跡の付いた岩があったそうな。

※脅す道具は口伝のため、色々なバリエーションがあります。

※また、大王島を「韋夜が島」と言う記述もありますが、「韋夜が島」の場所は現在の大王島より岸寄りにあったテーブル状の岩とも言われています。周囲の民話、ダンダラボッチが登場する地名には必ず地名に「大」が付き、「大王」は怖い物、海の難所と言う意味があります。

ダンダラボッチの正体を探る

民話の成り立ち

前半は出雲の熊野、後半は紀州熊野の信仰祭りその物は、熊野の祭りであるため、古くから存在していた物と思われます。 元々は2つの話があり、1つは山や谷を作った話、もう一つはわらじの話です。 前者は単純に和魂で出雲国風土記などに見られる話しですが、悪さをする辺りの話からは、一つ目の話が加わるため、平安時代の比叡山における信仰が加わった物と見られます。

伝承の有る場所には必ず石神様もしくは韋夜神が祀られています。

天狗山の民話と島津国造出雲笠夜命

ここで、出雲の伝説を御紹介します。

その昔、出雲山中で炭焼きを行っていた人たちがいました。のちに炭焼きの木を求め、熊野の神様と供に木の国、つまり現在の紀州に移り住んできた人たちです。波切神社とその周囲の神社には元熊野の神様たちを多く祀っています。物語はその昔、出雲の国の炭焼き小屋から始まります。

八束水臣津野命(又は仁王)はある夜、炭焼き小屋の庭先で眠りこんでしまいました。 八束水臣津野命は巨大な大男で、庭先に巨大な足があることに驚いた炭焼き小屋の住人はその片足を切り落としてしまいます。 それまで、山や森などを作っていた八束水臣津野命は荒れに荒れ、人を浚うなどの悪さをする神様に変貌してしまいます。そこで村人は八束水臣津野命の足が付いた草鞋を掲げます。(脅しなのか、返すのかは不明ですが) ある夜、村にひょっこり行者が現れ、その足は俺の足だと言って持ち帰ってしまいました。これ以降、八束水臣津野命により、村が荒らされることが無くなったそうです。 その持ち帰った行者つまり、化身した八束水臣津野命は、天狗山(熊野山)に住む天狗だと言われ、以後、天狗山に祠を作り祀ることとなります。 これが出雲にある熊野大社の始まりで、天狗は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」として祀られ、後に、本居宣長により素戔嗚尊と同一神とされてしまいます。 また、意宇(おう)と言う地名は、八束水臣津野命が呼びかけに対し「おう」と答えたことに由来するそうで、後に、意宇の土地に熊野大社の相伴の宮として揖屋神社(言屋社)、真名井神社、神魂神社、八重垣神社が建立されました。 そして、それを祀っていたのが出雲国造、出雲笠屋命。つまり志摩国を建国した人であったというわけです。

 

櫛御気野命と同一神が、闇淤加美神。波切神社では韋夜神になり、横山石上神社や、片田の石神さんなど市内の至る所で、水神様として祭られています。蛇体(髭の無い龍)の神様で人の形になると阿遅志貴高日子根神(賀茂大神・九鬼氏の神様)になります。

志摩の民話では片足の由縁と草鞋の由縁の部分に相当します。 この伝説は、出雲にある熊野大社の大元、天狗山にまつわるお話で、出雲の八雲町に伝えられている民話です。 作られた時代は不明とされ、話が広まったのは戦国時代、尼子氏の時代だとも言われています。民話は幾つかバリエーションがあり、八束水臣津野命を仁王様としている物や出雲国風土記にあわせている物などがあります。八雲町では仁王様に合わせた話を公開しています。 本来は、天狗山の名前の由来ともなった話なので、仁王様ではなく天狗の様ですが、他の熊野社でも草鞋を奉納しているため時代の変遷で、八束水臣津野命もしくはその他の神様から鎌倉時代付近で天狗、近年に仁王と移り変わったのかも知れません。 出雲の熊野大社は元熊野と呼ばれ、現在、紀州にある熊野大社の元となった物と言われています。

平安時代以前 

島津国造出雲笠屋命の信仰が入っていた時代です。その名残が、石神さん、韋夜神です。

ダンダラボッチが両足、両目のある時代で、島や岩を作った民話が広範囲に残されています。

魚切などの地名は飛鳥時代にはありましたので、かなり古くから出雲と志摩は往来があったようです。

志摩市のかなりの地名が出雲の地名と同じか酷似しているのもその影響の様です。

この地名が酷似している場所と伊雑宮周辺から波切、片田、立神に至る七本鮫のルートとがほぼ一致していることも特徴です。

出雲国と志摩国の対比表 地名
出雲国   志摩国
須賀 須賀(波切)、須賀社(磯部)
意宇(おう・ダイダラボッチがいた地域名) 和具大島、老、大里、横山
桧山(地域名) 磯部町桧山・浜島町桧山路
上迫子川 迫子川
新羅(ダイダラボッチが引き寄せた土地) 鳥羽市白木町
岩倉(地域名) 鳥羽市岩倉町
赤崎(地域名・松江市、米子市に多い地名) 鳥羽市赤崎町
石部神社(元出雲系の神社) 石部(磯部の古名)・沓掛(磯部町)
沓掛(石部神社のあるところに見られる地名)
魚切 魚切(波切の飛鳥時代における地名)
片田(松江市西忌部町) 片田(志摩市志摩町)

平安時代後半から鎌倉時代に入った比叡山の信仰 法師の意味

この時代に入って波切は比叡山系の寺社領になります。この時代に怖い物の象徴が比叡山の慈忍和尚の信仰。片目片足の和尚様として知られ、修行僧にはかなり厳しい和尚様として知られています。世間一般で言う一つ目小僧の伝承の元になった和尚様です。ダンダラボッチがダンダラ法師と書くところもここからきているようです。

一つ目の怖い和尚様の信仰は平安時代後半からかなり広まっていましたので、この時代には単独で別の信仰として存在していた様です。

八大龍王の信仰・波切で退治したのは八大龍王の孫

口伝の中には八大龍王に追われてやってきたとあります。波切神社の主神、國狭槌神のもう一つの姿が、八面天女に相当します。この八面天女は八大龍王の徳叉迦の娘です。韋夜神は國狭槌神のもう一つの姿、多紀理比売命の息子の化身した姿に相当しますから、八大龍王の徳叉迦の孫に退治された事になります。

鎌倉、室町時代に入った片足の信仰

この時代に入ったのが、先に書いた出雲の伝説。

ほぼ同時期に全国に広がったようです。但し、この時代には波切にはこの伝説がなく、江戸時代の後半に入ったようです。

江戸時代後半、現在の民話

現在の民話が出来上がったのは宝永年間頃と見られています。

祭りを再興した福州和尚の時代には魔王としか記載されておらず、文献には「あららぎの里」の文言が見えます。あららぎの里の魔王、鬼八をモデルにしたようです。

暫くし、先の出雲の伝説が加わり現在の形になったようです。

天太玉と大王崎の「大王」とアメノウズメ

ダンダラボッチは天太玉とも呼ばれています。通称はフトダマです。太玉と書きますが、大と太は伊勢地方ではよく混同されます。

例えば、「太一」は古くは「大一」と書いたそうで、王と玉は将棋などの世界でよく使われます。

古い書き方に気が付けば、大王とは天太玉、ダンダラボッチの事だという事に気が付きます。

アメノウズメが志摩に帰ったという話は親である天太玉の元に帰ったという事かもしれません。

豊受大神宮と須場の浜。七人婆さんと波切の地名の謎解き

わらじを流す際に登場するのが、七人の婆さん。天白神を表します。豊受大神の姉に相当します。

実は、豊受大神宮の社殿から鸚鵡岩を結ぶ線を真っ直ぐに伸ばすと須場の浜に到達します。そして、豊受大神が羽衣を取り返し帰っていった先が織姫星というわけですが、この織姫星を構成している星座を古くは「菜切星」と呼びます。単純に「菜切包丁」に似ていただけの様です。そして、波切の古い書き方の一つが、菜切というわけです


元々志摩の民話?ギリシャ神話?

揖屋神社の謎

熊野をイヤと読むのは紀州の読み方ですが、熊野大社の六社の揖屋神社は結構、近年になってからの名前です。名前としては韋夜権現の方が古くなります。この熊野大社の民話はギリシャ神話のアルゴ船の話に酷似しています。その船長がイアソン(ちょっと訛ればイヤソン)。大王は仏教用語で怖いもの。ギリシャ神話でいえばセイレーン。気がつけば、アルゴ船の関係者が志摩に揃ってしまいます。

ギリシャ神話のタロスがダンダラボッチ、イアソン(別名片足サンダルの男)が韋夜神とすると、行動が非常によく似ています。

元々は、海のシルクロードを伝ってきた神話かもしれませんね。